昭和54年9月20日   朝の御理解

                    
 御理解第8節
 「子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親の心ぢゃ無信心者ほど神は可愛い信心しておかげを受けて呉よ」                
       
 昨夜、私がここへ出て参りましたのは、もう十二時近くでしたが、内田のおばあちゃんがお届けに来ました。広島方から電話がかかってきたと言うのです。息子さんの耕治君が親戚に当たります人が急に肺炎で熱が下がらないからと言うお届けでございましたが。その後に耕治さんの娘が二人おりますが、その一人をあちらの教会の舞人にしないかと、舞いを教えたいとこう先生が言われる。
 本当はあんた所のお父さんはお道の教師になって、ここの教会を継がなきゃならない人だったのが急にそれを止めてしもうたから娘のあんたでも、せめて楽人ぐらいにならにゃでけんと言われたと言う事が昨日です、電話で伝えられて来たんです。
 そりゃ本当そうぢゃろなっと結局親の思いと言うものは、大変あちらの先生お気に入って大変御比礼の立つ教会なんです。女の先生ですけれどもね。それで耕治さんがあちらで修行して学校に行くばっかりになっておったのが急にお道の教師を止めて。信心、あちらでしておりましたけど、もうあちらの親先生としては、それを大変残念に思っておられた。
 私はそれをお届けさして頂きながら思たんですけれども、自分の家に跡継ぎがないから、跡継ぎがないから耕治さんを養子にもらって、跡を継がせようと言う事ではなくて。先生自身があれほどのお徳を受けておかげを受けておられる教会だからね。この人が本当に自分のような信心を頂き徳を受けて助かってくれればと言う思いの方が強いのであろうと思たんです。
 これは私の自分の心の状態から思うてそう思った。この人はおとなしゅうしてなかなか信心も手篤いから、これを養子にして跡継ぎがおらんから跡継ぎにする為のと言う事だけではない。そして親にかけてかなわなかった願いを子供にせめて舞人になっとなって、頂かにゃいけんばいとそのまあ言われたと言うお届けが昨日ございましたんですけどもね。
 これは確かに我情でいっぱい、我欲の時にはね必ず跡継ぎの為にとしか思わんです。家も跡継ぎをと物色するんです。けれども自分自身がおかげを頂いておりますとね。そう言う事ぢゃないです。自分が助かっておるような助かりをこの人にも助かってくれたらと言うのです。 
 昨日、研修の時にいろんな話の中からどう言う事だったでしょうか。あんた達は今、ここで合楽教会で月々の費用がどの位かかるかと言うて話しました。百万位かかよると言う人もありゃ、百五十万もかかりよるぢゃろう、いやあ四百万なかかりよるぢゃろうと色々でした。私も四、五日前初めて聞いて知ったんですけども、今ここで三百万いっとるです、経費が。                私はそれを聞いて実はびっくりしたんです。日に十万ずつなからねば合楽は立たんです。米一粒買うわけぢゃありません。これだけ沢山なお供えを頂いてそしてなおかつそれなんです。しかし、大したおかげを頂いとるもんぢゃあるねと思います。同時にですからここに五十人の修行生がおるなら五十人の修行生が例えば電気一つでも今の電気を使っとる半分になれば百のものが五十ですむよ、私が。 私共は自分の部屋に電気の二つの球がありますが、いっちょ必ず消しております。入り口のスイッチを押すとパッと一つがつくだけ。あれをそのままにしとくと二つパッとつくです。そしてそのまま使う。そりゃ何か電気が必要な時にはどれだけ使うてもよいけども、その心掛けだよと。信心は心掛けでするもんだからと言うて皆に申しました事ですけども。
 私は電気代が惜しい、三百万の経費は四百万でもかかるごつならなきゃいかんと私は思うんですけれどもね。この頃総会の時に佐田恵介君が発表しておりましたですね。堯として自分達は一銭でも金を儲かると言う事は出来ない。だからそれを今まで使いよったもんを使わんで、御造営費にでも当てたいと言ったような意味の発表をしておりました。
 ね、ですから、んなら合楽の教会の中の家族、修行生一同の者がですね。自分達は一銭でも儲かる事は出来んのだから、ここで言うなら使われておるものをね。それこそ一つでも二つでも始末もしよう倹約もさせて頂こうと言う事はとりも直さずね。それだけお教会の在り方に奉賛することにもなりゃ、御造営のそれに協力する事にもなるんだとね。                       儲かりが出来んから言わば自分の身を削ってでも、言うならば今まで使いよった十のものは五つにしてと言うような心掛けがいるよと。私はそう言いながらです。もう本当惜しいとか欲しいとかさらさら思いませんでした。そう言う心掛けにならにゃお徳は受けられんと私は知っているから言うんですね。例えば電気がつきっぱなしになっておろうがどうなっておろうがです。それが気が付かないような事ではです。心行しとるとは言えないのです。
 いつも私が石鹸が一つ使うでも、使う心掛けがいるよ。タオル一本使うでも、こうしとかなければね。そこに心が使われる。それを心行と言うのだと。ね、そのくらいな水ももらさん心行でも、他にここでは修行がないのだから。水かぶったり、断食したりと言ったような修行はここでは全廃になったのだから。もうあなた方は心行一つに掛けなければ、その為には、そう言う心掛けいるんぢゃないだろうかと。決して電気料を惜しむわけでもね、そこに粗末になっておるからいけないと、惜しい欲しいぢゃない。
 それは神様に対してもお粗末である、御無礼であるだけではない、心掛けとしてね、それが必要なんだと。教祖金光大神様がね、この方の事を生神、生神と言うが、皆もこの通りのおかげが受けられる、生神とはここに神が生まれると言う事であってと皆もその通りのおかげが受けられると仰せられた。 
 もう、教祖金光大神様の心の中と言うものは、只有り難いの一点張り、もう有り難いばっかり。その有り難いに人が助かり自分の身の上の助かりと言うものを思われた時にです。自分のようなおかげを頂いてくれたら世の中がどんなに素晴らしい有り難い事になるだろうかと思われての事であろうと私思った。
 これも私、自分が思う事から感じてそう思うんです。よか信者を作ろうと思って言うのぢゃない。もう私、昨夜もその事ばっかり思わせて頂いとったら、もう本当に結局、私がおかげを受けておる事。私が心の状態、おかげを受けておる心のこの状態。その状態に言うなら人間の幸せの条件が一つ一つ足ろうてくるおかげの中に私がある。ここに御神縁を頂かれる方達が私のような心の状態。     私のような形の上にもお繰合わせを頂かれたら、どんなに素晴らしいだろうかと。そしてそのおかげを頂いて、その周辺の方達がまたそう言うおかげを受けられたらどういう素晴らしい事であろうかとね。親が子を思う、親が助かっておるなら自分のような状態になれば子供も助かると思えば、それを言わずにはおられん思わずにはおられない。私位な助かりでもです。こんなに私は日々有り難く過ごしておる。しかも、こんなにも恵まれ続けておる。       だから私のような心の状態に皆さんがなったらどんなに素晴らしい事になるだろうかとこれは思う事しきりです。         皆さんがおかげ頂いて下さったらどんどん御用でもして下さるぢゃろうからてんと言うような思いはサラサラないです。皆さんが助かって下さると言う事。それも金光大神ぢゃないですけれども。皆もこの通りのおかげが受けられると仰せられるようにね。     教祖生神金光大神とまでもいかんにしてもです。大坪総一郎が受けておる心の状態のおかげ。形の上に恵まれておるおかげと言うものは、私がここまでおかげを受けておるのであるから、皆もこの通りのおかげが受けられると思うたらね。少しは無理なようだけれども少しはえげつないふうに聞こえるかも知れんけれども、言わずにはおられない。
 これも昨日研修の時にね。お互いの言うなら真の信心の内容としてね。お互いが言うならばお取次を頂くでもはまりが足りない。しかもそれを願うと言う事が、自分の我情我欲の事を願うのではなくてね。神様が少しは喜んで下さるような事を願いよらんわけぢゃないけども、願い方が足りん。足りんならどう言うふう足りんかと言うとはまりが足らんというふうな御理解を昨日頂いてもらいましたよね。
 言うならお互い真の信心を求めておる、その真の信心の内容を昨日はまあ聞いて頂いたんですね。井上さんの例を、また高松和子先生が前の晩に頂いたと言うおいさみの事について聞いてもろうた。ね、本気で願うと言う事が足りないのだと。はまって願うと言う事が足りないのだ。そこにおかげを頂きゃ、例えばならば何と申しましょうかね。昨日、例をお供えでもさせて頂かにゃと思いよるばってん、お取次も頂かずにしかもはまった。どうでもと言う一念一心と言うものがです。貫かねばおかげにならん、為にはこうだと言う、具体的な話しでしたがです。
 これは皆さんにお供えをしてもらいたいけんでもなからなければです。私が少しでも楽を見たいからぢゃ決してないです。そう言う信心でなからなければ徳が受けられないから言ってるんです。
 出来た時にお供えをしようぐれな事では、もうそれはね、お供えをすればおかげは頂こうけれども徳には力にはならん。本気で神様に喜んで頂くような事を本気で思うて、それをはまってお取次を頂くと言ったような心で、はあ成程自分がお供えしたんぢゃなかった。神様からさせられたたいとこう言う本気で願えば神様がこう言う不思議なおかげを下さる事が分かって確信が出来てくる。その確信がそのまま力にもなれば徳にもなるのだから。そう言う力も徳も受けてほしいばっかりで言いよるとですばい。
 昨日、研修の時に、私がこれだけ言いよるけれども、なかなかね。あっそうですかと言うて、あらそうだろうと言うふうに分かったか分からんような。分からんでもよいから、いつか今日の御理解を頂いておって何かの機会にそう言う発心でも出来るようなおかげを頂けば。まあいいようなもんだけども、親の願いと言うものは切である。それこそ思う事、急でもある、切でもある。
 いつだったか、もう一、二ヶ月も前だったでしょうか。Z『もう沢山な人が薄暗い、真っ暗な顔して沢山な荷物をかついでもう山坂のような所を登っておる。しかも、もうこれにはきりがないと言う山坂を登っておる。もう二つになるようにして、どけだけの人が分からんようにして登っておる』そのお知らせを頂いた時にね。
 これが本当の地獄極楽と言うならばね、地獄の坂を一生懸命登っておる、地獄に行く為の坂を登っておる。我情我欲でいっぱいで登っておる。もう行き詰まると言う所がない、限りなくそこへ向かって登っておる。それを回れ右して反対の方へ行けばです。それこそ光明の世界、勿論坂ではあっても光明世界を目指して行くと言う者が非常に少ない。
 もう、これだけの人が地獄に、例えば落ちて行かんならんとは、何と言う悲しい事だろうかと。そん時、私が思う切々心を皆さんに聞いてもらった事があった。そうしてこの人達が助かる手立てがなかろうかと、もういろいろ思った時です。もういよいよ自分があの世行きをすると言う事。言うならば晩年になったと、もう年を取って後のいくばくもないと言う時にでもよいから、自分の持っておる財産を合楽教会にお供えさして頂くと言うような遺言書でも書いておけば、絶対もうまわれ道の一遍に極楽行ぢゃなかばってん、回れ右をしてその方の道を必ず歩く事が出来ると言う事を私は確信した時に。はあ、ここに助かりの手立てがあったと言う話を聞いて頂いたでしょ、皆さんに。
 私はこの頃、敬信会の時にもまあその話をぱあっとしました。そればってんか、もうそれこそ貝がフタをしているような感じで、こちらに跳ね返ってくるような感じでした。本当親先生、私がごたる者でん、なら合楽教会に自分の持っておる財産ばお供えするといやあ、極楽行きの道に出られますかと、はあそうですか、と言うふうに聞く者がいない。
 まるっきり、ここの場合はおかげも真実性を欠くほどのおかげを頂いとる。ほんなこっちゃあるのと言ったようなおかげを頂いとるけれども、ならそう言うお話もですね。だからそれを信じなかったら、やはりほんなこっちゃろかとしか思わないだろうけれども。これも私の親心であり、切々心なんです。
 何とかこの人達が私の心のような心の状態になったら、もうどんなに素晴らしいおかげを受けられるだろうか。私のような者でもここまでのおかげを、一切に恵まれておるおかげの状態と言うものを自分で思ってですね。ここまでは皆もおかげが受けられると教祖様が生神を目指せとおっしゃったと同じような心の状態で、私が皆さんにそれを言っておるのです。
 私の我情からでもなからなければ、我欲からでもない。皆さんからしぼり取ろうと思ってるわけでもない。そこにです。本当の信心を分からせて頂いて、言うならね。氏子信心しておかげを受けてくれよとね。屑の子ほど可愛い、それこそどこまであるか分からない限りない、言うなら苦しみの世界に、言うならね。あの徳川家康が言ったと言う、この世、人生と言うものは一生重たい荷物を担いで山坂を登るようなものだと言われたが。本当にその通りに、まさにその通り、そしてそのまま地獄へ行く。
 ね、だからあれは嘘なんです。その嘘を本当なように思うて、この位な苦労はもう当たり前と思うとるわけです。私が言うのはそうぢゃない。その重いとか荷物とかと言ったようなものをはずしたら、どのくらい楽になるか。
 回れ右をして歩いて行く、行き先がどの位に恵まれる世界に住む事が出来る事か。それを私が体験さして頂いて言うのですから、間違いはないのだけれどもね。成程これは教導、分からせるね、分かってもらう。分かんなさいと言う事はこんなにも難しいもんだろうかと思うのですけれども、皆さんでもそうでしょう。
 皆さんも信心によって助かっておられる、この助かりだけでも、この人が助かったならと思う時があるでしょ。こげな事に腹を立てんな、かえって御礼ば言わなんごたっとこれ、あの人はプンプン腹かきござる。ほんに自分ぐらいの心の広さを頂いたら、この人も助からっしゃるであろうにと思うたら、やはり祈らにゃいかんです。 ね、願わずにおられない。それが言うならば親心である。と同時に神心になってくるのです。それがもっともっと助かってごらんなさい。もうそれこそ教祖様ならずとも、ね、私でもそれを思う、私ぐれいな心の状態になったら、もう兎に角勿体のうして有り難うしてね。こう言うおかげが受けられる世界があるのに、それで、その手立てをそれこそ切実心を持って説くけれどもね。        それを聞いても行じようともしないなら、いつまでたっても、言うなら悲しい事である。神様の言うならば、無信心者ほど神は可愛い、信心しておかげ受けてくれよと言うのは。今日、私が皆さんに聞いて頂いたような事ではなかろうかと思います。「どうぞ」